もくじ
亀之丞との別れ、そして出家
ところが、1544(天文13)年、亀之丞の父・井伊直満とその弟の直義が、井伊家を支配していた今川氏に謀反の疑いをかけられて殺害されてしまいます。さらにわずか9歳の亀之丞も、命を狙われ、身を隠すため命からがら信州(現在の長野県)へ。許嫁から引き離された直虎は出家(※2)し、井伊家の菩提寺である龍潭寺の南渓和尚から「次郎法師」の名を与えられました。
※2「出家」…俗世間を離れ、髪を切り落とし僧侶や尼となり、仏道の修業を行うこと。
亀之丞の帰郷と、跡継ぎ「虎松」の誕生
1555(弘治元)年、亀之丞が11年ぶりに井伊谷へ帰ってきました。
しかし、出家していた次郎法師は結婚することができません。
亀之丞は次郎法師の父・直盛の養子となって「直親」と名乗り、井伊家家臣・奥山朝利の娘と結婚。その後、待望の男児「虎松」(後の井伊直政)が誕生しました。
肉親や家臣たちの相次ぐ戦死
しかし、それと前後して、井伊家では、悲劇が立て続けに起こりました。
1560(永禄3)年、今川義元に従って尾張(現在の愛知県西部)へと出陣した直盛が、桶狭間の戦いで戦死。さらに、2年後の1562(同5)年には、井伊家当主を継いでいた直親が、今川氏真から“徳川家康に味方をしている”と疑われて殺害、さらに曾祖父直平や、多くの家臣たちが相次ぎ戦死…。こうして井伊家を継ぐ男子は、わずか4歳の幼い虎松ただ一人となってしまいました。
女城主「井伊直虎」の誕生
1565(永禄8)年、次郎法師は、幼い虎松、そして井伊家を守るため、南渓和尚と相談し、大きな決断をしました。
「直虎」と名乗り、井伊谷城の城主となる決心を固めたのです。
こうして“女城主”となった直虎ですが、すぐに困難が待ち受けていました。今川氏真が、井伊谷周辺に徳政令(※3)を出したのです。これを受け入れてしまったら、井伊家の家臣や領内の経済は混乱してしまいます。
領内を徳政令の混乱から救った直虎。しかし…。
直虎は、井伊領を守るため、この徳政令を2年間引き延ばすことを決断します。しかし、今川氏の圧力に対抗しきれず、2年後、遂に徳政令が発布。直虎は城主の座から追われ、家老の小野但馬守が井伊領を支配します。
直虎は城を出て、母が暮らす龍潭寺へ身を寄せます。8歳の虎松は命を守るため鳳来寺へ預けられ、虎松の母は頭陀寺村(現・南区頭陀寺町)付近に拠点を持つ松下一族の松下清景と再婚。こうして、井伊家の一族は離れ離れになりました。
虎松を徳川家康に合わせ、家臣に
直虎や南渓和尚たちは、井伊家を復活させるため、遠江の領有を安定させていた徳川家康に従うことを決めました。
1575(天正3)年、鳳来寺に預けていた虎松を連れ戻し、彼の母の再婚先である松下一族のもとへ養子に入れました。そして、松下氏の力を借りて、浜松城にいた家康へのお目見え(※4)を計画します。家康は、15歳の虎松を小姓(※5)として迎え入れ、万千代という名を与え、井伊谷に領地を持つことを許しました。こうして、直虎は、井伊の家名を再興させることができたのです。
今なお、注目を集める直虎
井伊家断絶の危機を寸前で乗り切った直虎。家康の家来として、また井伊家を再興するために活躍する万千代を見守りながら、1582(天正10)年8月26日、その生涯を閉じました。40数年の生涯だったといわれています。
井伊家歴代当主としては数えられていない直虎ですが、井伊家の歴史と戦国時代の遠江を語る上で欠かすことのできない人物として、今なお注目されています。
※3「徳政令」…民衆を救うため、大名などが寺社や商人へ借金の帳消しを求めること。このときの徳政令は、領内を混乱させることで井伊家の力を弱めることが目的であったといわれている。
※4「お目見え」…身分の高い人に会うこと。
※5「小姓」…武家で主人の身の回りの世話をする少年
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